旧拍手SS


車内で流していたラジオでパーソナリティが8時を回ったことを知らせた。いつも通りの時間。行きつけの喫茶店でモーニングを済ませ、一服してから愛車で職場へとたどり着く。サイドミラーに写る髪型が崩れていないことをチェックしシートベルトを外した。

コツコツ、カーペットが敷き詰められ響き過ぎない事務所内に革靴の音を鈍く鳴らす。腕時計を確認、8時10分。アイツはもう来ている頃だろう。まだ彼女がここで働き始めてから数ヶ月しか経っていないというのに、いつしか朝から向けられる笑顔が獄にとって一つのモーニングルーティンと化しているなどと、きっと本人に自覚はないのだろう。

自動ドアを抜けて見慣れた受付カウンターを目の前に獄はその足を止めた。


「…まだ来てねぇのか?」


いつもなら眩しいほどの笑顔でかけられる朝の挨拶、それが今日は聞こえない。それどころか受付はまだ電気すらついていなかった。彼女が昨日手入れしていた花はそこに生き生きと咲き誇っているし、いつも掃除している受付だってピカピカに輝いている。日常的に行っているのだから1日くらいやらずともそれらは姿を変えることはないのだが、獄にとってはそこが全く違う場所にも思えた。

だかしかし彼女だって少しくらい到着が遅い日もあるだろう。むしろ始業まではまだずいぶんと時間があるのだから、毎日欠かさずにこの時間に来ている方が本来であれば珍しいのだ。彼女が勤め始めるまでは毎朝自らつけていた電気のスイッチを押して事務所へ足を踏み入れた。




****




コンコンコン、ノックの音が聞こえ、依頼人との会話を一旦止めてから入室を許可した。彼女が勤め始めるよりずいぶん前にコーヒーがまずいと溢して以来、事務員が淹れるコーヒーは依頼人の分だけであった。最近になり彼女にだけは自分の分も淹れるよう言いつけてから打ち合わせ中にコーヒーを持ってくるのはほとんど彼女になっていた。


「失礼します」


声をかけて入ってきたのは彼女ではなかった。依頼人の前に一つカップを置き、ミルクや砂糖を添えて再び声をかけると退室していく。あぁ、こんなことなら依頼人が来る前に自分のコーヒーを淹れておくんだった。舌を打ちたい気持ちをぐっとこらえて獄は依頼人との会話を再開する。コーヒーが飲みたい、目の前にあるそれではなくて、アイツが淹れたやつが飲みたいのだ。

依頼人との打ち合わせは予定通りに終わった。次の予定と作業について軽く確認をして入り口まで見送る。部屋まで戻るとカップを回収に来た事務員と鉢合わせたが、それも彼女ではなかった。先ほどの依頼人が来た時に渡してくれた手土産の菓子を手に獄は受付へと向かった。

カウンターにも、やはり彼女の姿はない。獄の姿に気付いた事務員は天国さん、と獄を呼んだ。


「もしかして、あの子のこと探してます?」

「…いや、」

「今日はお休みなんですよ」


いや、と否定したにも関わらず獄が彼女を探しているのだとほとんど確信があるような物言いをして、事務員は彼女が休みであると教えてくれた。それも風邪などではないから安心してほしいと付け加えて。


「そうだったのか」

「はい。確か家の設備点検があるから、ついでに歯医者と眼科、全部まとめて今日行っちゃうって言ってました」

「なるほどな」

「何か渡しておきますか?」

「…いや、別にアイツにってわけじゃねぇけど。さっきの依頼人から貰ったから適当に分けてくれ」


そこに彼女がいたのなら、迷わず彼女に渡していたのだけれど、いないのならば仕方がない。紙袋ごと事務員へ手渡すとわかりました、と受け取ってくれた。長居をする用もないので獄が自分の部屋へ戻ろうとした時、事務員は獄を呼び止めた。


「…なんだ?」

「天国さん。あの子って、実は意外とモテるんですよ。本人には自覚ないですけど」

「………」


それを俺に言ってどうする、そう口に出して抗議しようにも全てを悟ったような言い方に墓穴を踏み兼ねないと思い獄は黙りこくった。なぜだ、なぜバレている。そんなにわかりやすく彼女への好意を表に出していたつもりもないし、そもそも自分が自覚したのだってつい最近のことなのに。肝心のアイツにも全く伝わっていないと思っていたことをなぜ目の前のこの女は知ったように話すのか。怪訝な表情に気がついた事務員はくすりと笑いをこぼした。


「大丈夫ですよ、あの子は何にも気付いてません。…まぁ、逆に大丈夫じゃないかもしれないですけど…。だから他に取られる前に早くしたほうがいいですよってことです」


じゃあ、これ頂きますね。そう言って開封した菓子折りを一つ彼女の席に置くと残りを持って奥の事務所へ入って行った。居心地の悪さにふぅ、と息を吐いて獄も部屋に戻る。

自前のコーヒーマシンでお気に入りの豆を使い、マグカップにたっぷりと淹れたところでアイツの淹れたコーヒーが飲みてぇ、とまたしても頭をよぎってついに末期かと額を押さえた。

色恋沙汰などいつ振りだろうか。思い返せば学生時代、いつだってライバルに張り合って勉強にスポーツ、色んなことに必死になった。それでも勝てた試しなどなく、余裕すら感じられる彼に負けたくなくて努力に時間を惜しみなく使っているうちに青春なんてものは過ぎ去ってしまった。

そしてこの仕事に就いてからは自分から甘い言葉を吐かなくとも寄ってくる女だっていて。むしろこんな風に誰かを好きになったことなど、果たしてあったのだろうか。

デスクに置かれたカレンダーに目をやり、打ち合わせだとか締め切りだとか、そんなことばかりが記されているそこに一つだけ空いた日を見つけた。かつて両親や兄から祝ってもらった記憶を思い出す、誕生日。そんなものを嬉しいと思うような歳はすっかり過ぎ去って、最早ただ歳を一つ加算するだけとなっていたその日。

オッサンだって少しは浮かれたっていいか。誰に言うわけでもない言い訳をして携帯を手に取った。断られたら別にそれでいい。そんなことを気にしている暇などないほどに毎日めまぐるしいほどの仕事に追われて、どうせ忘れてしまうのだから。


"6月29日、空いてるか?"


それでも、アイツと一緒にいられたらいい。送信をしてから返事が来るまで、そわそわとしてしまう自分に気が付かない振りをして灰皿に煙草を押し付けた。


[ < ]


[ back ]


- Blue Ribbon -