11
2本遅れの電車になんとか滑り込み、混み合っていたせいで乱れた髪や服を直してから早足で事務所に入ると天国さんと遭遇した。やっぱりもう来ちゃってるよね、出迎えるのが日課なのに今日は出来なかったな。走ったせいでまた乱れた髪を押さえて挨拶をすると天国さんも優しく返してくれた。
「そんなに慌ててどうした?」
「あ、その……寝坊してしまって!」
「まだ十分早いじゃねぇか」
咄嗟に口をついた嘘に笑ってくれたのでほっと息を吐く。天国さんはいつものように完璧に決まっていてつい見惚れてしまいそうになるけれど、天国さんもこちらを見ているものだから恥ずかしくて目を逸らしてしまった。遠目から見ているくらいがわたしの心臓にはちょうどよかったのかもしれない、なんて今更になって逃げ出したい気持ちに駆られる。
「俺は今日外で打ち合わせだから」
「行ってらっしゃいませ」
「ああ。後で連絡する」
「……っはい!」
背中を見送ってからうるさい心臓を押さえて崩れ落ちるように座り込んだ。
そう、今日は第二回定時に怯える日、つまり天国さんと食事に行く日なのである。だから今になって逃げるなんてことは出来ないんだ。
寝坊したなんていうのはもちろん嘘で、本当はいつもより1時間以上早く起きていた。朝の支度に時間がかかったのは昨晩のうちに決めていた服がなんとなく気に入らなくなってしまって、選び直して更にアイロン掛けまでしていたから。気合の入れように我ながら笑えてくる。
「おはよ、#name2#。ちゃんと気合入れてきた?」
「おはよう。…変じゃないかな?」
「いいじゃん、世界一かわいいよ」
「ふふ、世界一って」
大袈裟な冗談を言って緊張を解してくれる彼女にはいくらお礼を言っても足りない。ところで、と真剣な表情で声を潜めた同僚に思わずわたしも表情を固くして顔を寄せる。
「わかってるよね?今日は金曜日、つまり明日は休みよ」
それが何を意味するかなんてもちろんわかっている。前回の失敗は繰り返さないつもりだ。
「どうせ向こうもその気だろうけど」
「流石にそれはないよ」
何故か大きなため息を吐かれてから絶対に大丈夫だという剣幕に押されて頷く。いずれにせよたとえ希望は薄くてもまたとないチャンスであることは間違いないのだから、当たって砕けろ!
****
「すみません、お待たせしてしまって…!」
出迎えてくれた店員さんに名前を伝え、案内されたテーブルにはすでに天国さんの姿があった。定時を少し過ぎた頃、打ち合わせが終わったから直接お店に向かうと連絡をもらってわたしも急いでここまでやってきた。落ち着いた店内でタバコをふかしていた天国さんがわたしに気付いて煙を吐きながら軽く手をあげる。そんな仕草まで完璧で緊張のボルテージは上がる一方。
「良い店だな」
「そうですね!実は同僚に教えてもらったんですよ」
鞄を置いてワイシャツ姿の天国さんの向かいに座る。緩められたネクタイに捲られた袖から覗く筋張った腕。普段より少しラフな姿。だめだ、目の前で見ると意識しちゃう。いい加減慣れないと、今日は頑張るって決めたのだから。
「そういや、この前は悪かった」
「いいえ、お疲れだったみたいですけど大丈夫でしたか?」
「美味いコーヒーのおかげでな」
もらえる言葉がどれも嬉しくて特別で、つい頬が緩んでしまう。気を紛らわせるためにメニューを眺めて勢いのままいつもよりちょっぴり強めのお酒を頼んだ。
それがいけなかったのかもしれない。そういうことにしておこう。
「このお酒、すごく飲みやすくて美味しいです」
「だろ?気に入ったみたいでよかったわ」
もう何杯目かわからなくなった飲み物に手を伸ばす。チェリーの沈んだカクテルグラスを傾けてもう一口。ウイスキーがベースになっているから度数は高いけれど甘くて飲みやすい。天国さんはロック一択のこだわり派みたいだけれどちゃんとわたしのことを考えてこっちを勧めてくれた。
お酒は弱い方じゃない。だから普通にずっと話続けていられるけれど、頭の中はふわふわとしていた。
「天国さんって、どんな人がタイプなんですか?」
なんとなく会話が途切れた拍子に口を滑った言葉に天国さんの目がわずかに見開かれる。確かに気になってはいたけれど、本当に聞いてしまうなんて。なんでだよ、と返されると思っていたその問いは思いがけず普通に返されてしまった。
「そうだな…、一生懸命で真っ直ぐで、努力できるやつ。つい世話焼きたくなるような、面倒見たくなるような、そんなやつだな」
「天国さん、とっても面倒見がいいですもんね」
「…そうか?」
「はい!でなきゃ職場の皆さんや今までの依頼人があんなに慕ってくれないですよ」
四十物さんなんかまさに。そう笑えばアイツは、と顔をしかめる。そんな風にしていても優しさが滲み出ていて、慕われるのがよくわかる気がした。
「お前は?俺だけ言ってフェアじゃねぇ」
「えっ…好きなタイプ、ですか…?」
楽しんでいる目で急かされて、視線を落として少し考える。わたしが好きなのは、面倒見が良くて仕事に熱心で、好き嫌いがハッキリしている人。わたしが優柔不断だから、そんなところに惹かれてしまう。忙しいのに気配りもしてくれて、労ってくれることもある。自分の方がよっぽど忙しいのに。そういう人を支えられたら良いなぁって思って、それでつい目で追ってしまうの。だから、わたしが好きなのは、きっと、
「天国さんみたいな人…」
「……」
「…………って言ったらどうします?」
「…お前なぁ…」
つい口から零れ落ちた本音を笑って誤魔化した。やってしまった、バカ。あんなの好きなタイプじゃなくて好きな人、だよ。手に汗を握って必死で何でもないように笑顔を作っているけれど、うまく笑えてるかな。額を抑えて目を伏せる天国さんはきっと冗談だと受け取ってくれた…と思う。
****
手慣れた様子でお会計を済ませてお店を出る天国さんの後に続く。この後が今日の勝負なのだから。えっと、とにかく伝えることは一つ。切り出すタイミングをどうにかして作らないと。
「きゃ…!」
考え事をしていたせいで小さな段差に気付かず、足を取られて体が傾いた。アルコールでのぼせた身体は踏みとどまれない。地面とぶつかるのを覚悟してぎゅっと目を瞑ったとき、差し出された腕に抱えられるように支えられて同時に天国さんの声が間近で響いた。
「…っと、大丈夫か?」
「…っ…!すみません…!」
転んでしまうことは避けられたけれど、恥ずかしさのあまり勢いよく距離をとった。顔に熱が集まって、言おうとしていた言葉がうまく出てこない。気を付けろよ、優しくそう言われても頷くことしか出来なくて、まるで酸素を全部奪われてしまったような気がした。
「遅くなっちまって悪かった。タクシー代なら出すから、心配すんな」
「…えっ……は、はい…」
普段ならお断りするところなのに当然のようにお札を渡されて受け取ってしまった。もう少し、なんてこの先を期待しているのはわたしだけなんだ。頑張ろうと思っていたけど、やっぱり迷惑かな。
「すみませ…」
「なぁ」
「……?」
言葉を遮られてうつむけていた顔を上げた。天国さんは真っ直ぐにこちらを見つめていて胸が大きく鳴る。
「これで帰るか、それとも一緒に家に来るかだったら…、どうする?」
「………えっ?」
今、なんて?家って、一緒にって…?混乱のあまり天国さんの顔を凝視して聞き間違いじゃないかと言われた言葉を頭の中で繰り返した。何度考えても、そういうことにしか思えないのはわたしが好都合に捉えているから…なの?
「いや、悪い。忘れてくれ」
何言ってんだ、俺。そう呟いて頭の後ろを掻いてくるりとこちらに背を向けた天国さん。勘違いでも気の迷いでもいい。もうこれを逃せばこんな機会2度とないかもしれない。今、言わないと。怖がってばかりじゃダメなんだから、わたしからちゃんと言わないと。
「待ってくださいっ!」
歩き出した天国さんを引き止めたくて袖を掴んだ。腕を引かれて足を止めてくれたけれど、どんな表情をしているのか知るのが怖くて顔を見れない。それでも視線が突き刺さっているのがわかって緊張でどうにかなってしまいそう。震える唇を開いてずっとずっと心の中で練習した言葉を紡いだ。
「…わたし…、帰りたくない、です…」
絞り出した声が届かなかったのか、反応がないので恐る恐る顔をあげてみる。視線が絡み合ったところで袖を掴んでいた手をぐいと引き寄せられた。バランスを崩して一歩近づいた距離、視界いっぱいのワイシャツとわずかな香水の匂いがわたしを包み込む。
「俺も、」
帰したくねぇ。囁くような声なのにやけにハッキリと聞こえた言葉。周囲の雑踏が遥か遠くであるかのように思えた。
心臓の音、呼吸の音。2人分のそれだけが頭の中に鳴り響いている。きゅっと胸が締め付けられてうまく息を吸えているかわからない。掴まれた手が熱くて溶けてしまいそう。ちゃんと誘えたって安心するどころか、どんどん苦しくなってくる。そんなわたしを知ってか知らずか、手を引いて歩き出す天国さんに付いていくだけで精一杯だった。
「そんなに慌ててどうした?」
「あ、その……寝坊してしまって!」
「まだ十分早いじゃねぇか」
咄嗟に口をついた嘘に笑ってくれたのでほっと息を吐く。天国さんはいつものように完璧に決まっていてつい見惚れてしまいそうになるけれど、天国さんもこちらを見ているものだから恥ずかしくて目を逸らしてしまった。遠目から見ているくらいがわたしの心臓にはちょうどよかったのかもしれない、なんて今更になって逃げ出したい気持ちに駆られる。
「俺は今日外で打ち合わせだから」
「行ってらっしゃいませ」
「ああ。後で連絡する」
「……っはい!」
背中を見送ってからうるさい心臓を押さえて崩れ落ちるように座り込んだ。
そう、今日は第二回定時に怯える日、つまり天国さんと食事に行く日なのである。だから今になって逃げるなんてことは出来ないんだ。
寝坊したなんていうのはもちろん嘘で、本当はいつもより1時間以上早く起きていた。朝の支度に時間がかかったのは昨晩のうちに決めていた服がなんとなく気に入らなくなってしまって、選び直して更にアイロン掛けまでしていたから。気合の入れように我ながら笑えてくる。
「おはよ、#name2#。ちゃんと気合入れてきた?」
「おはよう。…変じゃないかな?」
「いいじゃん、世界一かわいいよ」
「ふふ、世界一って」
大袈裟な冗談を言って緊張を解してくれる彼女にはいくらお礼を言っても足りない。ところで、と真剣な表情で声を潜めた同僚に思わずわたしも表情を固くして顔を寄せる。
「わかってるよね?今日は金曜日、つまり明日は休みよ」
それが何を意味するかなんてもちろんわかっている。前回の失敗は繰り返さないつもりだ。
「どうせ向こうもその気だろうけど」
「流石にそれはないよ」
何故か大きなため息を吐かれてから絶対に大丈夫だという剣幕に押されて頷く。いずれにせよたとえ希望は薄くてもまたとないチャンスであることは間違いないのだから、当たって砕けろ!
****
「すみません、お待たせしてしまって…!」
出迎えてくれた店員さんに名前を伝え、案内されたテーブルにはすでに天国さんの姿があった。定時を少し過ぎた頃、打ち合わせが終わったから直接お店に向かうと連絡をもらってわたしも急いでここまでやってきた。落ち着いた店内でタバコをふかしていた天国さんがわたしに気付いて煙を吐きながら軽く手をあげる。そんな仕草まで完璧で緊張のボルテージは上がる一方。
「良い店だな」
「そうですね!実は同僚に教えてもらったんですよ」
鞄を置いてワイシャツ姿の天国さんの向かいに座る。緩められたネクタイに捲られた袖から覗く筋張った腕。普段より少しラフな姿。だめだ、目の前で見ると意識しちゃう。いい加減慣れないと、今日は頑張るって決めたのだから。
「そういや、この前は悪かった」
「いいえ、お疲れだったみたいですけど大丈夫でしたか?」
「美味いコーヒーのおかげでな」
もらえる言葉がどれも嬉しくて特別で、つい頬が緩んでしまう。気を紛らわせるためにメニューを眺めて勢いのままいつもよりちょっぴり強めのお酒を頼んだ。
それがいけなかったのかもしれない。そういうことにしておこう。
「このお酒、すごく飲みやすくて美味しいです」
「だろ?気に入ったみたいでよかったわ」
もう何杯目かわからなくなった飲み物に手を伸ばす。チェリーの沈んだカクテルグラスを傾けてもう一口。ウイスキーがベースになっているから度数は高いけれど甘くて飲みやすい。天国さんはロック一択のこだわり派みたいだけれどちゃんとわたしのことを考えてこっちを勧めてくれた。
お酒は弱い方じゃない。だから普通にずっと話続けていられるけれど、頭の中はふわふわとしていた。
「天国さんって、どんな人がタイプなんですか?」
なんとなく会話が途切れた拍子に口を滑った言葉に天国さんの目がわずかに見開かれる。確かに気になってはいたけれど、本当に聞いてしまうなんて。なんでだよ、と返されると思っていたその問いは思いがけず普通に返されてしまった。
「そうだな…、一生懸命で真っ直ぐで、努力できるやつ。つい世話焼きたくなるような、面倒見たくなるような、そんなやつだな」
「天国さん、とっても面倒見がいいですもんね」
「…そうか?」
「はい!でなきゃ職場の皆さんや今までの依頼人があんなに慕ってくれないですよ」
四十物さんなんかまさに。そう笑えばアイツは、と顔をしかめる。そんな風にしていても優しさが滲み出ていて、慕われるのがよくわかる気がした。
「お前は?俺だけ言ってフェアじゃねぇ」
「えっ…好きなタイプ、ですか…?」
楽しんでいる目で急かされて、視線を落として少し考える。わたしが好きなのは、面倒見が良くて仕事に熱心で、好き嫌いがハッキリしている人。わたしが優柔不断だから、そんなところに惹かれてしまう。忙しいのに気配りもしてくれて、労ってくれることもある。自分の方がよっぽど忙しいのに。そういう人を支えられたら良いなぁって思って、それでつい目で追ってしまうの。だから、わたしが好きなのは、きっと、
「天国さんみたいな人…」
「……」
「…………って言ったらどうします?」
「…お前なぁ…」
つい口から零れ落ちた本音を笑って誤魔化した。やってしまった、バカ。あんなの好きなタイプじゃなくて好きな人、だよ。手に汗を握って必死で何でもないように笑顔を作っているけれど、うまく笑えてるかな。額を抑えて目を伏せる天国さんはきっと冗談だと受け取ってくれた…と思う。
****
手慣れた様子でお会計を済ませてお店を出る天国さんの後に続く。この後が今日の勝負なのだから。えっと、とにかく伝えることは一つ。切り出すタイミングをどうにかして作らないと。
「きゃ…!」
考え事をしていたせいで小さな段差に気付かず、足を取られて体が傾いた。アルコールでのぼせた身体は踏みとどまれない。地面とぶつかるのを覚悟してぎゅっと目を瞑ったとき、差し出された腕に抱えられるように支えられて同時に天国さんの声が間近で響いた。
「…っと、大丈夫か?」
「…っ…!すみません…!」
転んでしまうことは避けられたけれど、恥ずかしさのあまり勢いよく距離をとった。顔に熱が集まって、言おうとしていた言葉がうまく出てこない。気を付けろよ、優しくそう言われても頷くことしか出来なくて、まるで酸素を全部奪われてしまったような気がした。
「遅くなっちまって悪かった。タクシー代なら出すから、心配すんな」
「…えっ……は、はい…」
普段ならお断りするところなのに当然のようにお札を渡されて受け取ってしまった。もう少し、なんてこの先を期待しているのはわたしだけなんだ。頑張ろうと思っていたけど、やっぱり迷惑かな。
「すみませ…」
「なぁ」
「……?」
言葉を遮られてうつむけていた顔を上げた。天国さんは真っ直ぐにこちらを見つめていて胸が大きく鳴る。
「これで帰るか、それとも一緒に家に来るかだったら…、どうする?」
「………えっ?」
今、なんて?家って、一緒にって…?混乱のあまり天国さんの顔を凝視して聞き間違いじゃないかと言われた言葉を頭の中で繰り返した。何度考えても、そういうことにしか思えないのはわたしが好都合に捉えているから…なの?
「いや、悪い。忘れてくれ」
何言ってんだ、俺。そう呟いて頭の後ろを掻いてくるりとこちらに背を向けた天国さん。勘違いでも気の迷いでもいい。もうこれを逃せばこんな機会2度とないかもしれない。今、言わないと。怖がってばかりじゃダメなんだから、わたしからちゃんと言わないと。
「待ってくださいっ!」
歩き出した天国さんを引き止めたくて袖を掴んだ。腕を引かれて足を止めてくれたけれど、どんな表情をしているのか知るのが怖くて顔を見れない。それでも視線が突き刺さっているのがわかって緊張でどうにかなってしまいそう。震える唇を開いてずっとずっと心の中で練習した言葉を紡いだ。
「…わたし…、帰りたくない、です…」
絞り出した声が届かなかったのか、反応がないので恐る恐る顔をあげてみる。視線が絡み合ったところで袖を掴んでいた手をぐいと引き寄せられた。バランスを崩して一歩近づいた距離、視界いっぱいのワイシャツとわずかな香水の匂いがわたしを包み込む。
「俺も、」
帰したくねぇ。囁くような声なのにやけにハッキリと聞こえた言葉。周囲の雑踏が遥か遠くであるかのように思えた。
心臓の音、呼吸の音。2人分のそれだけが頭の中に鳴り響いている。きゅっと胸が締め付けられてうまく息を吸えているかわからない。掴まれた手が熱くて溶けてしまいそう。ちゃんと誘えたって安心するどころか、どんどん苦しくなってくる。そんなわたしを知ってか知らずか、手を引いて歩き出す天国さんに付いていくだけで精一杯だった。