08


引き出しのチョコレートに伸ばしかけた手をぐっと堪えて我慢する。女子に定期的にやってくるダイエット期間。きっかけはいつもバラバラだけれど、今回は雑誌の「働く女子のパンツスタイル特集」に影響されている。わたしの真の目的を知っている隣の席の同僚からはまた呆れたような視線が送られてきていた。


「そんなに無理に自分を変えなくてもいいんじゃないの?案外そのままの#name2#を好きになってくれるかもよ」

「それは…そうかもしれないけど……」


当然ながら天国さんに少しでも綺麗だと思ってもらえるなら、なんて下心もあったりする。多少痩せたところで変わらないとも思いつつ、最大のお洒落はダイエットだろうなんてカッコつけて実施し始めたのだ。昨日から。


「影での努力も大事だけどまずは本人と話しなさいよ」

「う……。ごもっともです…」


前に食事に行ってから早数週間。まだ梅雨の真っ只中だったはずなのに気付けばもう真夏になっていた。天国さんとはその前と何も変わっていない。


「てことで、はいこれ」


パッと携帯の画面をこちらに向けられてそこに書かれている文字を追った。シックなデザインのホームページは飲食店のもののようで数日後の日付が書いてある。


「新オープンのダイニングバー?へぇ、お洒落なお店だね」

「でしょう?だからデートに誘ってみなよ」

「……え、誰が?!誰を?!?!」


勤務中だというのにあまりに驚いて声をあげてしまった。慌てて口元を押さえたが幸いわたしたち以外は近くにいなかったのでほっと胸を撫で下ろして軽く咳払いをする。デートに誘うって、そりゃあわたしが天国さんを、なんだろうけれど急にそんな。無理だよ、無理。


「でも#name2#から誘わないと。待ってても仕方ないよ」

「そうだけど…」

「…もう。私ここ行ってみたいなって思ってたんだけど、これだけじゃよくわからないから下見してきて欲しいな」


無理矢理行く理由を作って背中を押してくれる彼女の好意をこれ以上無下にするわけにもいかない。確かに彼女の言う通りわたしが天国さんを好きで、天国さんにとってはただの受付嬢でしかないのだからこっちから誘わないと進展もなにもないのだ。この前のは本当に運が良かったというだけ、これからは積極的に動かないといけない。


「…頑張ってみる」

「そうこなくちゃ!いい雰囲気だったら私とも一緒に行こうね」


言ってみたものの頭の中でシミュレーションをするだけで緊張する。何て言えばいいんだろう?どんなタイミングで切り出せば…。これまでの人生でそんな経験をしたことがないことを今日ほど恨んだことはない。検索フォームに入力しようとしたけれど流石にやめて仕事に戻った。




****




午後になり郵便局に行くついでにいつものコーヒーショップで来客用の豆を買った。勉強をしているおかげか豆の種類がわかるようになりお店のマスターとも会話が弾むようになってきた。天国さんともよく話すようで、事務所で使う豆なのだと言えば天国さんの好みのものを教えてもらえた。


「ありがとうございます、また来ますね!」


にこやかに見送ってくれるマスターに挨拶をして店を出る。今日もいい豆を買えたのでとても満足だ。お使いはこれで終わりなので事務所へ戻ろうと歩き始めると遠くに天国さんが歩いているのが見えた。

その隣を歩くのはパンツスーツの女性。細身のパンツが似合っていてとても綺麗な人だった。その女性が不意に立ち止まり、天国さんがその顔を覗き込んで……?2人はすぐに離れたけれど、そのときに天国さんがこちらを見たような気がした。わたしは目をそらして早足で曲がり角を行き回り道をして事務所へ戻った。


「ただいまっ!」

「そんなに慌ててどうしたの?」

「なんでもないよ?ちょっと遅くなりそうで急いで帰ってきちゃった」


外すっごく暑かったよ、なんて話を誤魔化して苦笑いを浮かべた。あんまり急いで歩いてきてしまったから汗ばんでいたけれど涼しい事務所に入ればすぐに引きそうだ。これ置いてくるね、とコーヒー豆の入った紙袋を見せて給湯室へ逃げるように向かう。

あの人はきっと記者の人だ。今日は取材が入っていたはずだし、何度か事務所まで来ていたこともあったはずだから。そうでなくても仕事中なのだし気にすることではないのに。

隣を歩く姿はとても似合っていると思った。あの人じゃなくたって、あんな風に綺麗な恋人がやっぱり天国さんにはいるんじゃないだろうか。だって天国さんはとても素敵な方なのだから女性たちが放っておくわけがないのだ。

食事に行った日、あの短い時間だけでも優しい笑顔を独り占め出来たのだからきっとわたしは幸せものだ。そんな思考とは裏腹に胸がちくりと痛んで手のひらをぎゅっと握りしめた。


(そろそろ戻らないとな…)


気持ちが落ち着くまで少しの間休憩していたわたしは置きっぱなしにしていたコーヒー豆を棚に仕舞い給湯室を出る。廊下に出ると後ろからおい、と声をかけられて胸がドクンと大きく鳴った。不自然にならないように深呼吸をしてゆっくりと振り返る。声をかけた天国さんはずんずんとこちらへ近づいてきた。


「天国さん?何かご用でしょうか?」

「いや、用ってほどでもねぇんだが。お前さっきコーヒーショップの近くにいたろ?」

「はい、買い出しに行ってました」


そうか、短くそこで切ると天国さんは視線を迷わせてからまた口を開いた。誰もいない廊下で2人、何故だか急に重い雰囲気が漂っているような気がして続く言葉に意識を集中させる。


「…一応言っとくが、一緒にいたのはただの記者で別になんでもねぇから」

「そうですか…あの、誰かに言いふらしたりしないので大丈夫ですよ。勘違いされたら困っちゃいますもんね…恋人とか、そういう人に」

「違う」


せめて気持ちを悟られないように笑いながら言うと間髪入れずに否定された。天国さんの言葉の意図が掴めなくてその顔を見上げる。まっすぐこちらを見つめる目があまりに真剣だったから逸らすことが出来なくなった。


「お前に誤解されたくなかったんだよ。恋人はいねぇから」

「…え……天国さん、恋人いないんですか…?」


言われたことがよくわからなくて思わず固まる。そうだといいなぁ、と多少は期待していたけれどまさか本当にそうだったとは思ってもいなかった。

よかったぁ、とつい心の声が漏れてハッと口を押さえるが時すでに遅し。天国さんの驚いた顔がこちらをみている。どうしよう、なんでだよとか思われてしまうかもしれない。いや、むしろ失礼だったかも、変に誤解されてしまうくらいなら正直に言った方がいいかな。焦って言葉を探したけれど上手い言い方が見つからない。


「あ、や、あの、……よかったって、思っちゃいました!」

「お前、それ…」

「でも変な意味じゃないので!じゃあ、仕事に戻ります…!」


恥ずかしさと焦りがどんどん大きくなってわたしは大急ぎでその場を立ち去った。履き慣れているヒールでよかった。またも慌てて受付に戻ってきたわたしにはもう慣れたように同僚がどうしたの、と聞いてくれる。外で見たこと、さっき話したこと。経緯を説明すれば彼女はふぅん、と何か含んだような顔をしていた。


「で、食事には誘えたの?」

「……あ」


恋人がいないことに安心してすっかりその話をするのを忘れていた。確かに思い返せばチャンスだったのかもしれない。恋人がいないならわたしと、って切り出すことも出来た…はず。歯切れ悪く濁すわたしに同僚はきっぱりと今日中に誘った方がいいと言い切った。


「でも彼女いないのわかってすぐ誘うのって、あからさますぎない…?」

「あからさまでいいじゃない。そういうつもりなんだから」

「そんな「とにかく、引き伸ばした方が誘いにくくなるよ」


押しに負けて首を縦に振る。確かに、善は急げと言うし予定を聞くなら早い方がいいし。断られちゃったら慰めてね、そう言えば彼女は絶対大丈夫だからとまた勇気づけてくれた。何の確証もないけれどそう言われたらなんとなく大丈夫なような気がした。




****




悶々とした気分で酒を煽り煙草をふかす。お前に誤解されたくない、それはそういうつもりで言ったはずなのにあの様子では何にも伝わっちゃいない。鈍感なのか経験が少ないのか、もしくはその両方か。ストレートに表現するのはどうにも苦手でつい回りくどい言い方をしてしまう俺が悪いのか。いや、あれは別に回りくどくもないだろう。やっぱりアイツが気づかねぇのが悪い。彼女がいないというだけであの反応をするくらいには意識してるくせに。

カウンター越しのバーテンダーは満タンになった灰皿を新しいものに交換した。


「何か悩み事ですか」

「…あぁ……、思い通りにいかねぇことがな」

「あなたを手の平で転がすとは、お相手はさぞ上手なんでしょうな」

「……」


察しの良すぎる彼には全て見透かされているようで悔しくて口を噤んだ。クソ、誰が上手だ、ただ鈍いだけの女に俺が転がされてたまるか。誤魔化すように空になったグラスを差し出し同じものを注文する。今日は飲みすぎたかもしれないが、こんな日くらい許される、俺は悪くない。ポケットの中で携帯が震えて取り出した。こんな時に誰だ、くだらない用件なら無視してやる。

コトン、目の前にグラスが置かれはっと我に帰る。見上げた先のバーテンダーはさぞ楽しそうな笑顔を浮かべている。


「今度はご機嫌ですね」

「……まぁな」


きっと何を言ったって今の自分に説得力はないのだろうと観念した。もやもやとした気持ちはどこへやら、久しぶりに味わう浮かぶような気分はどうにも悪くない。たった1件のメッセージでこんなにも心が動かされるとは、確かに転がされているという表現は間違ってないかもしれない。お気に入りのウイスキーを喉へ流し込むとさっきと同じ酒なのに今は何故だかやたらと美味く感じた。


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