トランクィッロ17
揺れる背中の上で遠のく意識を手放して、深い海の底へ沈んでいくような感覚に身を委ねた。
目を開けるとわたしは見慣れたバロンの城下町にいた。道ゆく人々はみんな活気に溢れていて、楽しそうに笑っている。帰りたいという気持ちが漠然と浮かんできてぼんやり突っ立っていたら駆けてきた子供とぶつかりそうになった。彼は軽い身のこなしでわたしを避け、服の裾を揺らしてくるりと振り返る。その視線はわたしを通り越して後ろへ向けられている。
「早く来いよ!」
「待ってよ~!」
男の子より背の小さな女の子が息を切らして走ってきた。その2人の姿を見て思わず声を漏らしそうになる。咄嗟に口を押さえてなんとか堪えたけれど男の子には怪訝な目で見られたので、顔を背けて誤魔化した。彼はわたしを一睨みして女の子の手を引いて走っていった。
あれは幼い頃のわたしとカインだ。どうして、なんて夢だから、の一言に尽きるのだろうけれど驚きのあまり心臓が跳ね上がった。改めて街を見渡して様子を眺める。浮き足立つ人々にいつもと違う雰囲気を感じ取ってこの日あった出来事に思い当たった。そうか、これは初めて飛空挺が国民にお披露目になった日。試作を繰り返して実用化に至り、記念すべき第一号。今よりまだずっと若いシドが得意げに舵を取っていたはずだ。これによりバロンはもともとの軍事力を遥かに増大させて世界一の座を譲らぬものとしたのだから。
空飛ぶ船に憧れる気持ちと、竜から空を奪われてしまうことへの複雑な気持ちを抱いていたであろうカインは見に行くかを迷っていたけれど、わたしが行きたいと伝えたら連れて行ってくれたんだ。見かけた自分たち探してみれば空を見上げるカインとわたしがいる。でも確か、空も船もまともに見ていなかった。だって飛空挺を見たかったんじゃなくて、カインと一緒にいたかっただけなんだから。
「すごいね」
「あぁ。でも飛竜のほうがよっぽど速く飛べるぜ」
「本当?!わたしも乗ってみたいなぁ」
じゃあ乗せてやる、と約束をしてくれたカイン。それで本当に乗せてもらって、あとで大人にたくさん怒られた。飛竜に乗ってカインと同じ景色をみられたのは今でも忘れない大切な思い出。
元気に走って行った小さな2人を見送ってなんとなく自分の家の方へと足を向けた。この頃ならきっとお父さんはお城で勤めていて、お母さんは家にいると思う。変わらない景色で続く家までの石畳。閉ざされた門を遠目に見てから裏へ回った。よく手入れされた庭にはハーブがたくさん育てられていて、苦かったお母さん特製の薬の味を思い出して懐かしくなる。
「ヤダヤダ、わたしも行く!」
開け放たれた窓から聞こえてきた幼い自分のものであろう泣き叫ぶ声にぎょっと身を縮めて草陰に隠れた。どうしてわたしが?カインと一緒だったはずなのに。そっと盗み見たわたしはさっき見かけた時より大きくなっていて、いつの間にか違う時間に来ていたみたい。
「あなたはまだよ、あと2年待ちなさい」
「どうしてダメなの?カインと一緒がいい」
「カインくんは2つ年上だから今年からね。もう少し待てばローザちゃんと一緒に行けるんだからいいじゃない」
あぁ、思い出した。カインが学校に行くのを知った時だ。そんなわがままを言ったってどうにもならないのに、ごめんねお母さん。今更届かない謝罪を胸の内で呟いて2人の会話を盗み聞く。どうやってわたしは納得したんだっけ、それとも泣き寝入りしたんだったかな。
「学校にはまだ行けないけれど、今のうちの魔法の練習をたくさんすれば早くカインくんと並べるようになるわ」
「……本当?」
「ええ、本当よ。だから#name1#、呪文のお稽古頑張れるわね?」
嗾けられてやる気に満ちたわたしが意気揚々と駆け出して行った。そっか、それで一生懸命勉強していたんだった。我ながらすごく不純な動機だと思うけど、そう仕向けてくれたお母さんには感謝しなくちゃいけないな。
世界は穏やかな空気が流れていた。自分の好きだったところだけが詰め込まれた夢のような場所。夢だから当然なのだけど。生まれ育ったバロンにもう一度帰りたいという思いは大きくなる一方だ。そしてもう一つ、わたしにとって大切な場所へと足を向けた。
街を出て吹き抜ける風が草原の草花を揺らしてわたしの背を押す。目指すはすぐ目の前で大きな存在感を放つバロン城。警備の兵や知っている人に見つからないようにひっそりと息を潜めて城へと忍び込む。いつの間にか夕日は沈み空は藍色に染まっていた。
「もしかして、また時間が変わっちゃったかな?」
人の気配を探りながらしんと静まり返る城内を歩き回る。城内がこんなに静かになっているのだから、きっと今はもう夜遅い時間に違いないだろう。
遠くから微かに足音が聞こえてきた。鎧のぶつかる音からして見廻りの兵だろうか。物陰に隠れてその人物が通り過ぎるのを待っていると、それは竜の鎧を纏ったカインだった。うるさく鳴る心臓を抑えてわたしに気付かなかったカインの背中を追いかける。こんな時間に何をしてるんだろう?時折足を止めて辺りを見渡す仕草は何かを探しているようだった。
ひょっとして、彼女を…?夜半部屋を抜け出す者は少なからずいるし、彼女はおとなしそうに見えても実の所は常習犯であるからこの時間に偶然出くわしてもおかしくないのだ。頭に浮かぶ想像に追いかける足を止めて金色の揺れる髪から視線を落とした。
「…#name1#」
カインに名前を呼ばれてびくりと背中が跳ねた。慌てて視線を戻すとカインも足を止めている。早く隠れなきゃ。そう思っても固まった身体は言うことを聞かないで立ちすくんだままである。カツカツと床を踏み鳴らす音はわたしの心配をよそに少しずつ遠ざかっていった。
「カイン…?」
言葉を発してはいないのに聞こえてくる自分の声。カインが歩いていった先のバルコニーにはわたしがいた。今より少し短い髪は夜空に溶けてしまいそう。思わず止めていた呼吸をゆっくりと吐き出して胸を撫で下ろす。カインが声をかけたのは、夢の中のわたしだった。
「こんな時間にどうしたの?」
「それはこっちの台詞だ。こんなところにいると風邪を引くぞ」
「…うん、ちょっと緊張しちゃって」
俯くわたしにカインは小さく笑いをこぼしてから頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。このやりとり、そうか。これはわたしが黒魔道士団の団長に就任する前日。酷く緊張して眠れなくなって、夜風に当たりに来たら偶然カインが来てくれたんだ。乱された髪を必死に直してカインに抗議しても笑うばかりで取り合ってくれない。
「大丈夫だ」
「…うん」
「お前ほど腕の立つ魔道士はそういない。それだけじゃない、団長として立派にまとめていけるだろう」
ただの気休めでこんな言葉を言わないとわかっているからこそ、何よりも嬉しかった。きらきら輝く星空を眺めたカインと2人きりの夜。
「わたし、みんなの…カインの役に立てるかな」
「とっくに黒魔道士団では頼りにされているだろう?だからこそお前が選ばれたんだ。それに、俺には出来ないことが出来るお前には、この先きっと助けられる」
「……うん、これからもっともっと、頑張らないとだね!」
いつの間にか胸に渦巻いていた不安はどこかに飛んでいって、わたしの中には確かな自信だけが残った。全部カインがくれたもの。頑張る理由も、前を向くことも、あなたの近くにいたいから。
ひとしきり話したわたしたちはそれぞれの部屋へ戻ろうとしていた。何かを探していたはずのカインも、まっすぐ来た道を戻っている。
「もしかして、」
わたしのこと探しててくれたの?緊張してるだろうってわかって、元気付けようとしてくれていたのかな。数年越しに知る事実に胸がどきどきと鳴る。自分ばかりが追いかけていたと思っていたから気にかけてくれていたことがすごく嬉しくてつい頬が緩んでしまう。
「…#name1#?」
「……え?」
背中を見送ろうとしていたわたしを振り返っているカイン。どうしよう、見つかっちゃった。焦るわたしを他所にカインは何も不審がらずにこちらへ歩みを進めてくる。
「どうかしたか?やっぱり部屋まで送るか?」
「う、ううん!大丈夫!……ねぇカイン、ありがとね」
唐突な感謝の言葉に首を傾げながらも口元を緩めてくれたカインに手を振ってその場を離れた。そして訪れた意識を引っ張られる感覚。夢から醒めるのだと直感的に感じる。
大丈夫、ここに未練はない。だってまたこんな平和な世界に戻れるのだから。
****
眩しい光に目を細めて、ゆっくりと瞼を開けて一番に飛び込んできたのは鮮やかな緑色だった。それは親友の翡翠色に煌めく瞳と、髪までもエメラルドに輝く不思議な雰囲気の少女。
「#name1#、目が覚めたのね!」
「ローザ…?」
「まだ寝てなくちゃダメよ」
起きあがろうとしたわたしの肩を目一杯抑えて押し戻す少女に為されるがまま、再び寝かされていた長椅子へ背をつける。寝心地が良いとは言えないけれど確かに消耗しきった身体は横になっている方がずっと楽だった。大人しくしていることを確認した彼女はリディアと名乗った。
「ここは?カインは?」
「落ち着いて、#name1#。順を追って説明するわね」
それからローザはこれまでにあったことを全て話してくれた。魔導船に乗り月へ行ったこと、全ての首謀者はゼムスだということ、バブイルの巨人を止めてゴルベーザが正気を取り戻したこと。そして、ゴルベーザがセシルの兄であること。
「…驚かないのね」
「なんとなく似てるって思ったことがあるの。まさか本当の兄弟だったとは思わなかったけれど」
「私は正直驚いたわ。でも、洗脳が解けたゴルベーザはまるで別人のようで…」
だから納得もしている。きっと複雑な思いだったに違いないけれど、受け入れて彼を認めようとしているのはわかった。これからゴルベーザはゼムスとの決着をつけるために月へ向かうという。放って置けない気持ちが一番に沸き上がって、横たえていた身体を起こした。聞けばみんなも同じで彼を追いかけるのだという。
「そういえば他のみんなは?」
「準備のために出ているわ」
2人はわたしのために付いていてくれたのだろう。いつも念入りに戦闘準備をするセシルのことだから、急いでいるとはいえもう少しかかるかもしれない。ずっと考えていたことを、わたしは思い切って口に出してみた。
「あのね、ローザ。一つお願いがあるの」
****
リディアと2人、対峙する恋人たちの様子を物陰に隠れてこっそりと伺っていた。困ったように、それでも強くローザを説得するセシルの後ろには腕を組んで何も言わないカインと2人の顔を見比べて肩をすくめる男。彼はエッジというエブラーナの王子だと小さな声で教えてくれる。あんなのでも王子様なのよ、とリディアは呆れた顔でつぶやいた。
「ローザ、そこを退くんだ…!」
「いやよ! 私も連れてってくれなきゃ、ここを退かないわ」
「何を…」
「あなたの側にいられるのなら、どうなっても…… いいえ、あなたと一緒ならどんな危険なことだって……!」
昔からローザが言い出したら聞かないことなんてわたしたち幼馴染の間では言うまでもなくわかっているのだから、この作戦が失敗するはずがなかった。ついにセシルは首を縦に振り、ローザを守ると誓いを立てるように彼女の手を取った。リディアに目配せをして2人同時に飛び出せば諦めたように男性陣はやれやれと肩をすくめた。
「うまく行ったね!」
「さすがローザだわ!」
得意げに笑うローザに飛びついたところでカインから名前を呼ばれる。
「お前はやめておけ」
「どうして」
「お前だってゼムスに狙われていたんだ。第一、さっきまで倒れていたくせにまた何かあったらどうする」
カインがただ何の理由もなく止めているわけじゃないことくらいわかっていた。心配してくれているのだろうし、危険な目に遭わないようにしてくれている。だけどこれまで何もできなかった自分が悔しくて、ただ言われるままに操られていた自分が嫌で、こちらを見下ろす竜の兜をまっすぐと見据えた。
「……お願い。わたし、みんなの役に立ちたい」
「……」
しばらくの沈黙の後、カインは諦めたようにわかったと口にした。わたしから喜びの声が出るより前にぴしゃりと強く名前を呼ばれる。
「ただし、無理はするな。辛い時はそう言え。俺のそばから離れるな。いいな?」
「…うん!」
目指すは月。わたしたちを乗せた魔導船は地面を離れて空へと昇っていく。それは飛竜よりも飛空艇よりも遥かに高く陽の光も届かないところへ達して、なお明るく輝き続ける月へ向かって飛んでいった。
目を開けるとわたしは見慣れたバロンの城下町にいた。道ゆく人々はみんな活気に溢れていて、楽しそうに笑っている。帰りたいという気持ちが漠然と浮かんできてぼんやり突っ立っていたら駆けてきた子供とぶつかりそうになった。彼は軽い身のこなしでわたしを避け、服の裾を揺らしてくるりと振り返る。その視線はわたしを通り越して後ろへ向けられている。
「早く来いよ!」
「待ってよ~!」
男の子より背の小さな女の子が息を切らして走ってきた。その2人の姿を見て思わず声を漏らしそうになる。咄嗟に口を押さえてなんとか堪えたけれど男の子には怪訝な目で見られたので、顔を背けて誤魔化した。彼はわたしを一睨みして女の子の手を引いて走っていった。
あれは幼い頃のわたしとカインだ。どうして、なんて夢だから、の一言に尽きるのだろうけれど驚きのあまり心臓が跳ね上がった。改めて街を見渡して様子を眺める。浮き足立つ人々にいつもと違う雰囲気を感じ取ってこの日あった出来事に思い当たった。そうか、これは初めて飛空挺が国民にお披露目になった日。試作を繰り返して実用化に至り、記念すべき第一号。今よりまだずっと若いシドが得意げに舵を取っていたはずだ。これによりバロンはもともとの軍事力を遥かに増大させて世界一の座を譲らぬものとしたのだから。
空飛ぶ船に憧れる気持ちと、竜から空を奪われてしまうことへの複雑な気持ちを抱いていたであろうカインは見に行くかを迷っていたけれど、わたしが行きたいと伝えたら連れて行ってくれたんだ。見かけた自分たち探してみれば空を見上げるカインとわたしがいる。でも確か、空も船もまともに見ていなかった。だって飛空挺を見たかったんじゃなくて、カインと一緒にいたかっただけなんだから。
「すごいね」
「あぁ。でも飛竜のほうがよっぽど速く飛べるぜ」
「本当?!わたしも乗ってみたいなぁ」
じゃあ乗せてやる、と約束をしてくれたカイン。それで本当に乗せてもらって、あとで大人にたくさん怒られた。飛竜に乗ってカインと同じ景色をみられたのは今でも忘れない大切な思い出。
元気に走って行った小さな2人を見送ってなんとなく自分の家の方へと足を向けた。この頃ならきっとお父さんはお城で勤めていて、お母さんは家にいると思う。変わらない景色で続く家までの石畳。閉ざされた門を遠目に見てから裏へ回った。よく手入れされた庭にはハーブがたくさん育てられていて、苦かったお母さん特製の薬の味を思い出して懐かしくなる。
「ヤダヤダ、わたしも行く!」
開け放たれた窓から聞こえてきた幼い自分のものであろう泣き叫ぶ声にぎょっと身を縮めて草陰に隠れた。どうしてわたしが?カインと一緒だったはずなのに。そっと盗み見たわたしはさっき見かけた時より大きくなっていて、いつの間にか違う時間に来ていたみたい。
「あなたはまだよ、あと2年待ちなさい」
「どうしてダメなの?カインと一緒がいい」
「カインくんは2つ年上だから今年からね。もう少し待てばローザちゃんと一緒に行けるんだからいいじゃない」
あぁ、思い出した。カインが学校に行くのを知った時だ。そんなわがままを言ったってどうにもならないのに、ごめんねお母さん。今更届かない謝罪を胸の内で呟いて2人の会話を盗み聞く。どうやってわたしは納得したんだっけ、それとも泣き寝入りしたんだったかな。
「学校にはまだ行けないけれど、今のうちの魔法の練習をたくさんすれば早くカインくんと並べるようになるわ」
「……本当?」
「ええ、本当よ。だから#name1#、呪文のお稽古頑張れるわね?」
嗾けられてやる気に満ちたわたしが意気揚々と駆け出して行った。そっか、それで一生懸命勉強していたんだった。我ながらすごく不純な動機だと思うけど、そう仕向けてくれたお母さんには感謝しなくちゃいけないな。
世界は穏やかな空気が流れていた。自分の好きだったところだけが詰め込まれた夢のような場所。夢だから当然なのだけど。生まれ育ったバロンにもう一度帰りたいという思いは大きくなる一方だ。そしてもう一つ、わたしにとって大切な場所へと足を向けた。
街を出て吹き抜ける風が草原の草花を揺らしてわたしの背を押す。目指すはすぐ目の前で大きな存在感を放つバロン城。警備の兵や知っている人に見つからないようにひっそりと息を潜めて城へと忍び込む。いつの間にか夕日は沈み空は藍色に染まっていた。
「もしかして、また時間が変わっちゃったかな?」
人の気配を探りながらしんと静まり返る城内を歩き回る。城内がこんなに静かになっているのだから、きっと今はもう夜遅い時間に違いないだろう。
遠くから微かに足音が聞こえてきた。鎧のぶつかる音からして見廻りの兵だろうか。物陰に隠れてその人物が通り過ぎるのを待っていると、それは竜の鎧を纏ったカインだった。うるさく鳴る心臓を抑えてわたしに気付かなかったカインの背中を追いかける。こんな時間に何をしてるんだろう?時折足を止めて辺りを見渡す仕草は何かを探しているようだった。
ひょっとして、彼女を…?夜半部屋を抜け出す者は少なからずいるし、彼女はおとなしそうに見えても実の所は常習犯であるからこの時間に偶然出くわしてもおかしくないのだ。頭に浮かぶ想像に追いかける足を止めて金色の揺れる髪から視線を落とした。
「…#name1#」
カインに名前を呼ばれてびくりと背中が跳ねた。慌てて視線を戻すとカインも足を止めている。早く隠れなきゃ。そう思っても固まった身体は言うことを聞かないで立ちすくんだままである。カツカツと床を踏み鳴らす音はわたしの心配をよそに少しずつ遠ざかっていった。
「カイン…?」
言葉を発してはいないのに聞こえてくる自分の声。カインが歩いていった先のバルコニーにはわたしがいた。今より少し短い髪は夜空に溶けてしまいそう。思わず止めていた呼吸をゆっくりと吐き出して胸を撫で下ろす。カインが声をかけたのは、夢の中のわたしだった。
「こんな時間にどうしたの?」
「それはこっちの台詞だ。こんなところにいると風邪を引くぞ」
「…うん、ちょっと緊張しちゃって」
俯くわたしにカインは小さく笑いをこぼしてから頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。このやりとり、そうか。これはわたしが黒魔道士団の団長に就任する前日。酷く緊張して眠れなくなって、夜風に当たりに来たら偶然カインが来てくれたんだ。乱された髪を必死に直してカインに抗議しても笑うばかりで取り合ってくれない。
「大丈夫だ」
「…うん」
「お前ほど腕の立つ魔道士はそういない。それだけじゃない、団長として立派にまとめていけるだろう」
ただの気休めでこんな言葉を言わないとわかっているからこそ、何よりも嬉しかった。きらきら輝く星空を眺めたカインと2人きりの夜。
「わたし、みんなの…カインの役に立てるかな」
「とっくに黒魔道士団では頼りにされているだろう?だからこそお前が選ばれたんだ。それに、俺には出来ないことが出来るお前には、この先きっと助けられる」
「……うん、これからもっともっと、頑張らないとだね!」
いつの間にか胸に渦巻いていた不安はどこかに飛んでいって、わたしの中には確かな自信だけが残った。全部カインがくれたもの。頑張る理由も、前を向くことも、あなたの近くにいたいから。
ひとしきり話したわたしたちはそれぞれの部屋へ戻ろうとしていた。何かを探していたはずのカインも、まっすぐ来た道を戻っている。
「もしかして、」
わたしのこと探しててくれたの?緊張してるだろうってわかって、元気付けようとしてくれていたのかな。数年越しに知る事実に胸がどきどきと鳴る。自分ばかりが追いかけていたと思っていたから気にかけてくれていたことがすごく嬉しくてつい頬が緩んでしまう。
「…#name1#?」
「……え?」
背中を見送ろうとしていたわたしを振り返っているカイン。どうしよう、見つかっちゃった。焦るわたしを他所にカインは何も不審がらずにこちらへ歩みを進めてくる。
「どうかしたか?やっぱり部屋まで送るか?」
「う、ううん!大丈夫!……ねぇカイン、ありがとね」
唐突な感謝の言葉に首を傾げながらも口元を緩めてくれたカインに手を振ってその場を離れた。そして訪れた意識を引っ張られる感覚。夢から醒めるのだと直感的に感じる。
大丈夫、ここに未練はない。だってまたこんな平和な世界に戻れるのだから。
****
眩しい光に目を細めて、ゆっくりと瞼を開けて一番に飛び込んできたのは鮮やかな緑色だった。それは親友の翡翠色に煌めく瞳と、髪までもエメラルドに輝く不思議な雰囲気の少女。
「#name1#、目が覚めたのね!」
「ローザ…?」
「まだ寝てなくちゃダメよ」
起きあがろうとしたわたしの肩を目一杯抑えて押し戻す少女に為されるがまま、再び寝かされていた長椅子へ背をつける。寝心地が良いとは言えないけれど確かに消耗しきった身体は横になっている方がずっと楽だった。大人しくしていることを確認した彼女はリディアと名乗った。
「ここは?カインは?」
「落ち着いて、#name1#。順を追って説明するわね」
それからローザはこれまでにあったことを全て話してくれた。魔導船に乗り月へ行ったこと、全ての首謀者はゼムスだということ、バブイルの巨人を止めてゴルベーザが正気を取り戻したこと。そして、ゴルベーザがセシルの兄であること。
「…驚かないのね」
「なんとなく似てるって思ったことがあるの。まさか本当の兄弟だったとは思わなかったけれど」
「私は正直驚いたわ。でも、洗脳が解けたゴルベーザはまるで別人のようで…」
だから納得もしている。きっと複雑な思いだったに違いないけれど、受け入れて彼を認めようとしているのはわかった。これからゴルベーザはゼムスとの決着をつけるために月へ向かうという。放って置けない気持ちが一番に沸き上がって、横たえていた身体を起こした。聞けばみんなも同じで彼を追いかけるのだという。
「そういえば他のみんなは?」
「準備のために出ているわ」
2人はわたしのために付いていてくれたのだろう。いつも念入りに戦闘準備をするセシルのことだから、急いでいるとはいえもう少しかかるかもしれない。ずっと考えていたことを、わたしは思い切って口に出してみた。
「あのね、ローザ。一つお願いがあるの」
****
リディアと2人、対峙する恋人たちの様子を物陰に隠れてこっそりと伺っていた。困ったように、それでも強くローザを説得するセシルの後ろには腕を組んで何も言わないカインと2人の顔を見比べて肩をすくめる男。彼はエッジというエブラーナの王子だと小さな声で教えてくれる。あんなのでも王子様なのよ、とリディアは呆れた顔でつぶやいた。
「ローザ、そこを退くんだ…!」
「いやよ! 私も連れてってくれなきゃ、ここを退かないわ」
「何を…」
「あなたの側にいられるのなら、どうなっても…… いいえ、あなたと一緒ならどんな危険なことだって……!」
昔からローザが言い出したら聞かないことなんてわたしたち幼馴染の間では言うまでもなくわかっているのだから、この作戦が失敗するはずがなかった。ついにセシルは首を縦に振り、ローザを守ると誓いを立てるように彼女の手を取った。リディアに目配せをして2人同時に飛び出せば諦めたように男性陣はやれやれと肩をすくめた。
「うまく行ったね!」
「さすがローザだわ!」
得意げに笑うローザに飛びついたところでカインから名前を呼ばれる。
「お前はやめておけ」
「どうして」
「お前だってゼムスに狙われていたんだ。第一、さっきまで倒れていたくせにまた何かあったらどうする」
カインがただ何の理由もなく止めているわけじゃないことくらいわかっていた。心配してくれているのだろうし、危険な目に遭わないようにしてくれている。だけどこれまで何もできなかった自分が悔しくて、ただ言われるままに操られていた自分が嫌で、こちらを見下ろす竜の兜をまっすぐと見据えた。
「……お願い。わたし、みんなの役に立ちたい」
「……」
しばらくの沈黙の後、カインは諦めたようにわかったと口にした。わたしから喜びの声が出るより前にぴしゃりと強く名前を呼ばれる。
「ただし、無理はするな。辛い時はそう言え。俺のそばから離れるな。いいな?」
「…うん!」
目指すは月。わたしたちを乗せた魔導船は地面を離れて空へと昇っていく。それは飛竜よりも飛空艇よりも遥かに高く陽の光も届かないところへ達して、なお明るく輝き続ける月へ向かって飛んでいった。